ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

地に足をつけて...

北京オリンピックで沸いている時期ですが、メダル数などは別としても、どうも今回目につくのは、中国という国のあり方に対する外部からの批判です。特に、人権問題や法の遵守などの点で、基準を満たしていないどころか無視していることが多いようですから。ただし、あまりこれを言い過ぎると、歪んだナショナリズムと受け止められかねず、中には必ずや存在するであろう良識ある中国人を傷つけることにもなるので、将来の改善を期待し、これ以上は控えたいと思います。
それにしても、国益と称して、背伸びして虚飾を施すと、結局はすぐにばれる上、かえって信頼や尊敬を損なうという教訓です。かつての上向きだった日本にも、そういうところがありましたし、今でも部分的にはそういう傾向があるのかもしれません。
結局のところ、地位についているかどうかとか、どれほど目立つ場で名をあげるか、ということに関しては、その人あるいはその組織全体の総合的な実力と合致した場合にのみ有効に働くのであって、戦略や向上心だけでがんばるのが、果たして望む成果を上げられるかどうかは保証の限りではないと、この頃つくづく思うようになりました。
例えば、以前も書いたことですが、ノーベル賞を○○年のうちに○○個とる国家目標、と日本が公言した途端に、受賞者がぴたりといなくなりました。多分、専門性そのもの以外の品性やノーベル賞の本来の意図を、政治的に自己中心に解釈していると見なされたからではないかとも思います。人の世とは、その点、正直で公平であるともいえます。オリンピックならともかく、学術面でノーベル賞をめざして努力することは、表面的には、または、一時的にはよしとしても、成熟した社会では、いつまでも通用するとも限りません。

マレーシアのリサーチで、表立った役職についている人よりも、その補佐役や組織内で名前が表に出ていない人の方が、物事や人をよく見ているし、場合によってはもっと実力があるんじゃないか、と思うことがよくあります。落ち着いていて、きちんと説明してくださり、誠実さが感じられるからです。オフィシャルな場では、当然、役職や経歴の光る人の方が前面に出るのですけれども、いろいろと周囲の人々とおしゃべりしていると、実際にはこの文書を作ったのは○○さんだ、とか、あの人は最近評判がよくない、などという話を聞けることがあります。もちろん、論文や発表では不必要なので、それをわざわざ書くようなことはしませんけれども、大事なポイントだと思っています。つまり、「自分にはわかっていないことが多い」「自分には限界がある」という自覚をこちらが持つことです。そうすると、案外に向こうの人があれこれ手伝ってくれることも増えるのです。持ちつ持たれつの関係です。

先程見たマレーシアのあるキリスト教組織に関して、ある役職についている人が公表した文書に嘘偽りがあるとのことで、一般信徒からの批判的コメントがブログに掲載されていました。私から見れば、多分、役職に就いている人は、対外的に背伸びしたかったんだろうな、と思います。ただ、一般信徒にとっては、ありもしない教会の歴史を書かれた、ということがすぐに察知できるので憤慨していたのです。概して、戦後独立した国の人々は、一部のエリートと一般大衆との開きがあるのと同時に、先を急ぎ過ぎて見栄を張るところがあります。ちょうど、明治時代の日本のように...。

人の世は流動的で力学も働くので、見極めが大事ですし、ある面、逃げることや立ち去ることも必要です。また、その道を断念したことが、必ずしも失敗とも限りません。

主人の場合も、病気によって失ったものがありますけれども、同時に、私自身、見えてきたものがたくさんあります。組織内では、病気なりに、きちんと主人の仕事ぶりや意図を見てくれる人がいて、それなりの評価を与えてくださるからです。これは本当に感謝なことで、診断された当初に予想していた以上の厚遇でした。そのことによって、主人の勤務先に対する私の印象も格段に向上しましたし、信頼や意欲もわいてきました。

どの国の人であっても、どの民族の人であっても、結局のところは、人間としての総合力がものをいうのかな、と思います。それは、明朗さ、正直かつ率直、誠実であること、常に他からよきものを学ぼうとする心構え、などではないでしょうか。