ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

クリスマスの憂鬱 マレーシア編

御降誕祭、おめでとうございます。

...と、挨拶はしてみたものの、何となく気分が盛り上がらないのです。スシロ先生からは、昨日もメールが届き、「明日からインドネシアに帰るので、まだ渡していなかった文献を探してくるよ」と親切なことばが書かれてありました。多分、マレーシアでのキリスト教神学用語をめぐる騒動再発のことは、スシロ先生の聖書翻訳事業とも密接に関わるため、ご存じのことと思います。それにしても、やれやれって感じですね。
マレーシアへも、毎年恒例のカードをまだ送っていません。マレーシア教会協議会(CCM)からは、早い年で11月下旬頃から、指導者層の手書きサイン入りのカードが送られてくるのが普通だったのですが、今年はまだです。事務所の一時移転で忙しかったこともさることながら、多分、カトリックの週刊新聞『ヘラルド』騒動などで、討議も加わったからではないかと想像しています。そうは言っても、首相や政府高官とのクリスマス・オープンハウスは今年も開催される予定のようです。これは、お互いの顔合わせをし、話し合いのルートを確保しておくためにも重要な行事です。ただ、一般信徒から見れば、「そんなことやっている場合じゃないだろ?」という意見もあるようです。

ここ数年、クリスマス前には、何やらムスリム政治家から何だかんだキリスト教に関するいちゃもんがつくのですが(例えば、「クリスマスの歌を歌ってもいいが、聖句、特に‘イエス・キリスト’という語の入った賛美歌は歌ってはならない」との某ムスリム発言で一時騒ぎになったのは、2004年のことでした)、今年は何だろうと思っていたら、これですからね。

懸案の『ヘラルド』発行許可の問題については、現時点で、マレーシアの電子版メディアや個人ブログそしてインターナショナル・ヘラルド・トリイビューンなどの海外メディアが、記事や意見文として取り上げています。
特に、12月25日付“Lily’s Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2)では、計7件のコピペをまとめて掲載しておきました。(8件目だけは、クリスマスらしいお話で締めました。)そのパターンは、神の名をめぐる、1980年代からおなじみのマレー・ムスリム当局とカトリックつまりキリスト教側の対立です。なんら新しい視点もありません。同じ事の繰り返しで、発展性がないのです。
もう飽き飽きしました。何のために私は、英語でも論文を書き、マレーシアの電子版新聞にまで投稿したのでしょうか?ちっとも役に立っていないどころか、すべてが無駄だったように思われます。
ある名誉教授が、私におっしゃいました。「ムスリムは、相手を殺しはしないが、さまざまな方法で非ムスリムを押してくる。平和を保とうと思ったら、非ムスリム、特にクリスチャンはそこから出て行かなければならない。その結果、その国の知的水準や経済状況がさらに悪化するのだ。だから、抽象的な話をしていないで、具体的な実例を挙げた論文の方が、むしろ説得力があってよい」と。
そうなんですけれども、毎回この繰り返しじゃ、当事者はもちろんのこと、私だって嫌になってきますよ。
2007年12月25日付の“Lily’s Room”の冒頭で取り上げた引用は、筆者本人からの許可を待っていたのですが、どうやらお返事がないので、そのまま引用元を明示して掲載させていただきました。実はこの内容の趣旨は、私が2005年に某大学のジャーナルに投稿した時に用いた引証とほぼ同じなんです。私の方がもう少し端折ってあり、別資料を追加しましたが。けれども、ある査読者によって見事に却下されました。ほとんどいいがかりのようなもので、失礼ながら、反論にもなっていませんでした。確かに、論文としての書き方ができていなかったのは認めますが、事の本質はそこにはなく、それぐらい詳細な具体例を出さなければ、説得力に欠けると考えたからでもあります。査読が戻ってきた段階で、早速、聖書翻訳コンサルタントのスシロ先生にも、マレーシア神学院で10年ほど教鞭をとられ、サラワク華人の奥様を持つアメリカの南メソディスト大学神学部の教授にも連絡して、助言を仰ぎました。ところが、お二人とも、私の引証については「それでよい。聖書は、キリスト教のどの教派でも原則は同じなのだから」とのことでした。
この時ほどがっくりきて、情けなく感じたことはありません。国際的に恥を晒しているようなものではないですか。
ちなみに、2007年3月にイスラエルを旅した時、パレスチナ領のベトレヘムにも行ったのですが、その時、アラブ系クリスチャンのガイドさんに、私、ちょっと確認してみたんです。「ここの教会では、神に祈る時、何という語彙を用いていますか」と。即座に、「“Allah”ですよ」と答えが返ってきました。「私達アラブのクリスチャンは、先祖代々、この土地に住んできたのです。もちろん、教会の礼拝で、“Allah”に祈っていても、その点ではムスリムと何ら問題ありません」。
思わず、私も笑みがこぼれて「シュクラン」とお礼を述べ、安心してバスに乗り込みました。こういうことは、文献を引用しないで、直接現地で当事者に確認するという経験そのものが大事だと思います。

もう一度、声を大にして言いましょう。
いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ福音書 2:14)
では、マレー語でも言ってみましょう。
 “Termulialah Allah di langit yang tertinggi! Dan di atas bumi, sejahteralah manusia yang menyenangkan hati-Nya!” (Lukas 2:14)