ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

今城塚古墳

少なくとも半年に一度の割合で献血をすると決めている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161201)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170705)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171006)。町内では先日の地震で中止となったため(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180619)、昨日の午後、他の用事も兼ねて隣の市の献血場所へ行った。
ところが、完治を宣言されたはずの耳鼻科の薬がまだ有効中らしく(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180619)、今回は献血お断りとなってしまった。
残念だったが、せっかく隣の市へ来たのだからと、ふと思い立って今城塚古墳を見に行こうと決めた。
駅前から市営バスに乗ったのはいいが、本当に久しぶりだったので、路線を少し間違えたらしい。お上りさんよろしく風景を眺めて下車する場所を探していたのだが、とうとう終点まで乗ってしまった。最初は満員だったのに、最後は私一人の乗客のみ。バスを止めてから、若い運転手さんが「どこまで行かれます?」と親切に尋ねてくれた。
西北部の山の中まで来てしまったのだが、降りる時に現金払いするつもりだったので、結局はただ乗り。初めて辿り着いた場所だったが、静かでなかなかいい場所だと思った。でも、単独というのは怖いことでもある。「今城塚古墳なら、岡本で降りないと。もっと早く言ってくれればよかった」と、わざわざ紙に丁寧な地図を書いて、「そこからは歩いて5分ほど」と教えてくれた。
運転手さんは、市の北部地域が担当だが、毎日、路線を変えて運転しているのだという。数分の休憩を取った後、再び元の路線を下って行くらしい。
今度はカード払いの手続きを取り、教えられたバス停でお礼を言って下車。地図を片手に歩いて行くと、目の前に小さな森らしき、こんもりとした場所が見えてきた。
カメラ持参だったので、あちこちの標識や整然と並べてある埴輪のレプリカやお濠端のような光景を写真に撮りながら、古墳を一周した。総長約350メートル、総幅約360メートルの規模だが、歩けば歩けるもので、既に地域の人々の犬の散歩やランニングの場と化している。前方後円墳は、小学低学年の時に家の図鑑で仁徳天皇陵の写真を見て(大人になったら是非とも行ってみたい)と強く願っていたが、実は関西に居住するようになって二十年以上経ったこの日になって、別の古墳ではあるが、初めて実現したのだった。
小学生達が古墳の眼の前でサッカーをして元気に走り回っていた。ボールを蹴っている地面がモザイクで古墳のある地図を表していたので、カメラで説明と地図を写しにズカズカと入って行ったところ、オバサンの無言の威力はそれなりに強力らしく、子供達の方が自然に場所を空けてくれた。
この古墳は、私がこの地に住むようになった年から十年がかりで始まった考古学的調査によって、従来は茨木市の太田茶臼山古墳が第26代の継体天皇陵だとされていたが、今では今城塚古墳の方が継体天皇陵であることが定説化されたようだ。調査当時のパネルも幾つかあったのだが、毎度、数千名ほどの人々が集まって、手分けして調査に従事した模様である。
その頃、私が何をしていたのかと言えば、マレーシアのキリスト教の聖書翻訳の事情や、中東アラブのキリスト教の歴史等を、ため息をつきながら一生懸命に文献を集めて読み込み、ファイルやノートを作って、定期的な研究発表に備えていたのだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070711)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070904)。
しかし、数千人も集まって調査をしていたのであれば、たまには私も応募して実地に経験する選択も可能だったのではないだろうか?今よりは若くて体力もあったはずなのに、精神的な余裕がなかった。マレーシアの研究テーマを早く仕上げて、学位論文に備えなければと、必死に思い詰めていたのだった。
今から考えると、思い詰めても思い詰めなくても、物事はなるようにしかならなかったのに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161205)、実に惜しいことをした。
パネルの説明を見ると、「大王」と書いて「だいおう」と振り仮名がつけてあったのだが、私の記憶では、昔の小学や中学の教科書では「おおきみ」と読ませていたはずだ。なぜ、「だいおう」にするのだろうか?西洋の王族のように聞こえて、残念である。
継体天皇といえば、福井県に行った時に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160106)、駅前のパネルに記されていたが、学部生の頃、国文学科で紹介された学説として「三王朝交替説」を併せて思い出すところである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171029)。
どうやら織田信長もこの古墳の場所を要塞か何かに利用していたらしい。まさか、「スメラミコトノミササギ」だと知っていて城塞にしたとは思えない。そうしてみると、清州城の信長が岐阜に入城し(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170729)、この地にも勢力を着実に伸ばしていた様子が実感でき、歴史の重複性を改めて思うところである。
写真によれば、昭和30年代頃までは、古墳の周辺には水田が広がっていたようである。今では住宅地と老人福祉センターがあり、車道が行き交っている。水田の中の古墳という風景は、奈良の飛鳥地方の特別保存地域でなければ、もはや現存しないのかもしれない。だが、稲作に従事していた人々は、毎日古墳を見て暮らしていたわけで、20年ほど前に本格的に考古学調査が始まるまでは、さまざまな言い伝えを基に想像を膨らませていたのであろうか?
もっと興味を惹かれたので、資料で学ぼうと思い、今城塚古代歴史館へも行こうと思ったのだが、先日の地震のために、しばらくは「臨時休館」と貼り紙がされていた。
今日になるまで恥ずかしくも知らなかったこととして、「高槻」の由来は、『古事記』『日本書紀』の神武東征の頃、天皇が賜った三島の土地に基づく軍旗「高月」に拠るらしい。
これから暑くなると大変だが、できる限り早めに、闘鶏山古墳、藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳、太田茶臼山古墳、そして百舌鳥古墳群などへも訪れてみたい。