ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

西洋の堕落を真似るべからず

https://globe.asahi.com/article/11629653


「海外王室の結婚報道から考える 日本社会と皇室結婚報道」
2018.06.25
サンドラ・ヘフェリン(Sandra Häfelin)


・メーガンさんご本人に離婚歴があったり、ハリー王子よりも3歳年上だったり、エンターテインメントビジネス出身であったり、母親がアフリカ系であったり、ご本人もご家族もイギリス国籍ではなく米国人であったり。英国王室では「前例のないもの」が並びました。


・注目すべきは、これらのことはタブロイド紙やネット記事を通して「話題」にはなったものの、結婚や結婚式そのものへの「影響」はなかったということ。そして、英国王室がそれを受け入れ、そのことが英国民、そして世界から好意的に受け止められたことです。


・ただし日本と少し違うのは、ドイツの場合、これは「あくまでもタブロイド紙に掲載された話」であることです。「暴かれはしても、実生活には害はない」のです。


・ドイツを含むヨーロッパの近年の感覚では、「夫は妻より収入が多いべきだ」という考え方自体が、ジェンダーの視点から問題視されています。


・ドイツでは、日本に比べて「多様な家族のかたち」が人々にとって当たり前のこととして受け止められています。結婚せずに子供を育てている事実婚カップルは珍しくないですし、昨年10月にはゲイのカップルの同性婚も合法化されました。


・基本的に男女関係なく、パートナーとの離婚後や死別後の恋愛は、むしろ周りから応援され歓迎されます。


・ドイツの前首相のシュレーダー氏は先日5度目の結婚をしましたが、このことを現地で「シュレーダーは新しい恋を見つけた」と応援する記事も目立ちました。


・「多様な価値観」の対極にあるような気がします。そして結局は、だれにとっても生きづらい社会を作ることにしかならないのではないでしょうか。

(部分抜粋引用終)
日独文化の視点を受け継ぐこのコラムニストについては初耳だったが、書き物のレベルとしては相当に質が低いことに、まず驚かされた。
朝日系だから登場するのだろうが、あくまで欧州の現状に基軸を置き、「対して日本では…」と非難するパターンの主張で、何も面白くない。1980年代ならば一部でもてはやされたかもしれないが、今では古過ぎて、何の意味も持たない。
上記の欧州の傾向については、率直なところ、私なら堕落だと思う(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180319)。昔の威厳や憧憬が崩壊したことを嘆きたいところである。つまり、王族や国の最高指導者たることの意味がなくなり、一般の平民と何ら変わることがないのである。
日本は、こんな風潮を真似すべきではない。もっと言えば、日本が世界のモデルたることを目指したいが、現実がそうでないならば、ますます欧州の堕落を真似すべきではないのだ。
シュレーダー氏は先日5度目の結婚」というが、これは祝福や尊敬に値するどころではない。異性への見識が低いことを露呈しているか、単に長い人生全体に対する責任感や見通しが甘かったことを示唆しているだけである。第一、シュレーダー氏は社会民主党SPD)であり、日本で言えば、福島瑞穂氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160210)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170812)や辻元清美氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100328)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171002)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171012)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171014)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180621)の政治系列の人だ。
ところで、話は少し変わるが、今年、私は二月中旬と五月末に、外つ国から二組の訪問者をお迎えした。いずれも英語圏だが、まるで好対照の経験だったことは明記すべきである。
二月の方は、米国人のA氏とBさんで、米国から豪州に向かう途上で東京に立ち寄った形。五月の方は、豪州人のCさんとDさんで、英国から豪州に帰国する途上で京都(と東京)に立ち寄った形であった。宗教的には、四人とも全員同じ(Bさんはルーテル派のキリスト教から改宗したと自分で言っていたが確証はない)である。A氏とCさんはかなり前からの旧知であり、その両者と私は、三年前に同じ場で一週間以上、時間を共に過ごしたことがある。従って、物の考え方や世界観や家族構成等は、その頃からお互いに知っていたことになる。
ちなみに、A氏の場合、本人も含めて家族の少なくとも4人は過去に日本と何らかの関わりを持ち、それぞれに滞日経験がある。
さて、その二月組は、どういうわけか最初からゴタゴタ続きだった。
突然の来日連絡に始まって、メールでの連絡が唐突過ぎ、コロコロ予定や意向が変わるのである。忙しいのはわかっていたが、こちらの都合を一切聞かないで、当然のように「自分達の方が上位にあるのだから、そちらが都合をつけて要求に従うべき」とでも言いたげな横柄な態度であった。
実際にお会いしてみると我儘の連続。特に初対面のBさんは、日本は初めての女性なのに、大変な礼儀外れ。話す内容から食べ方から座り方から何もかもお行儀が悪く、機械は勝手にいじくって壊す上、謝りもしない。あたかも自分こそが日本の全てを熟知しているかのような傲慢な態度だった。しかもA氏はほぼBさんの言いなりで、背後でコントロールされているかのようだったのも不思議でならなかった。
最も嫌だったのは、Bさんが、こちらが何も知らないと思って、A氏について平気で嘘をつくことだった。
この時の衝撃と混乱は私にとって非常に大きく、五日間の東京滞在の最後には、目眩と耳詰まりのような感覚があり、帰宅後は一週間ほど風邪で外出出来ない状態だった。一ヶ月ほど経って、ようやく経験を密かに文字化できるようになったが、調べていくと新たに知る事実が次々と現れ、つい最近になるまで、約三ヶ月間は朦朧とした日々の連続だった。
(自分の応対に反省すべき点もあったのではないだろうか)と思っていたところ、五月中旬になって、これまた突然であったが、Cさんから連絡が来た。「来週、日本に立ち寄るけれど、もし時間があれば、食事でも一緒に」というささやかなお誘いだった。Cさんの友人Dさんは同窓生とのことで、ロンドンでの用件が済み次第、以前、ご主人や息子さんと日本に来たことがあるというDさんの発案で、初めて日本経由にしたのだという。
二月の経験では散々な思いをしたが、今度は近場の京都であり、しかも二日だけなのだからと、幾つかのオプションも含めて、前日に下見もして、「雨ならここ」「疲れたならばこちらへ」等と計画を立てた。
結果は、見事なほど充実した楽しい時間だった。Cさんは恐らく私と同世代かと思うが、長らくご主人の仕事も兼ねて英国で暮らし、三年前に三日間ほどご一緒した息子さんはオックスフォード大学、娘さんはシドニー大学を卒業、と子育ても順調そうである。(但し、「でもねぇ、ここまで来るの、大変だったのよ!」と謙遜されている。)そして、精神分析医として大学病院で勤務する傍ら、時々、主要新聞にコラムを書き、要請されてテレビ等でも発言されてきた。
Dさんの方は現代美術の学芸員で、メルボルンでギャラリーを持ち、ニューヨークにも支店があるとのことだった。お孫さんが七人もいるそうだが、確かにお元気で瑞々しくて、おしゃれさんでもあった。
CさんDさん組には、明治維新150周年に合わせて、伏見桃山明治天皇御陵と京都御所へお連れし、お二人の強い希望で祇園(八坂神社と町家等)も巡った。合間の食事やお茶の時間には、女性同士だからということもあったが、足休めも兼ねてそれぞれ一時間以上もお喋りが弾んだ。欧州の変容について、思わず「憂鬱で気落ちさせる(depressing)」と言った私に、「私達も同じように感じているのよ」と、意見の一致を見た。
他にもさまざまな意見交換や社会事情の説明等もできて、良い時間が過ごせた。
「地元に住むあなたの案内がなければ、珍しくて貴重な日本の最高かつ中心地へ行くことはできなかったわ」「今年は明治150周年記念とのことで、運良く訪問できて嬉しかった」とのことで、整然とした簡潔美を尊ぶ日本建築の巧みさにも、目で味わう繊細な和食にも、素直に感嘆の声を上げてくださった。
現代では、かつての白豪主義はどことやら、地政学的に「豪州はアジアの一部」との位置づけだそうで、時差も同じ豪州と日本は、この地域全体で良好な関係を維持すべきだと、全力を挙げて邁進中とのことだった。確かに元来はキリスト教圏の豪州だったが、今や世俗主義が進み、かつ移民国でアジア系も多いためか、日本についても違和感なく、すぐに溶け込んでいらした。
帰国後もすぐに写真交換。嬉しそうな興奮状態のお礼状も送られてきて、思い出作りとしても万全だった。

果たして、その三ヶ月前のA氏Bさん組とは正反対である。同様に、今年は明治維新150周年だからと、東京での五日間、皇居や明治神宮その他ゆかりの各展示物を巡った。全く予期していなかったのに、思いがけず元大使がお接待に出てくださった場所もあり、恐縮した。
その時の写真については、二人の日本出発後、しばらく時間をかけて作成した40枚以上の選択フォルダーを送った。A氏はその場では喜んで「自分も送る」と書いてきたのだが、その翌日に、どういうわけか突然バッサリと「今後は連絡中止」とされてしまった。一ヶ月後に、さり気なく写真の所望をすると、今度は驚くべきことに、人物なしの風景のみの写真が130枚ほど列挙されてボンと寄越したのみ。しばらくして気がついたら、いつの間にか断りもなく全部削除されてしまっていた。
Bさんからは、写真どころではない。最初からお礼も何もないのである。傍若無人という形容が当てはまるような、まるで途上国から来た新米の不細工なお姫様みたいな感じの人だった。
A氏に関する著書数冊を持参で、メールではできないような幾つかの込み入った質問もしたかったのだが、必ずといってよいほどBさんが話を逸らすので、結局は質問への答えは遮断され、お喋りが弾むどころではなかった。

この相違は何だろうか。後で知ったのだが、三人の娘を持つA氏は二度目の離婚をしたばかりで、仕事上の活動で知り合ったBさんとは、正式の関係ではないのに、ここ数年間、国内外を共に旅行して回っていたらしい。しかも、親子ほどの年齢差があったのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180604)。そればかりではなく、私が不愉快だったのは、A氏の元家族について、初対面の私にBさんが初日から悪しざまに言ったことだった。実は私は娘さんの一人を知っていたので、目眩がしそうなほど驚いたことは言うまでもない。
さらに厄介なことに、どうやらその後も、A氏は複数の家族行事で二人の元妻や三人の異母娘と会っており、関係が全く切れているわけではなさそうだったことである。Bさんの話によれば、自分こそが最高の女であり、後は全部バツ、という鼻息の荒さだったのだが、脇で黙って聞いていたA氏は、自分の元家族に対する最低限の義務は今も果たし、思い出さえも繋いでいるらしい、という複雑さだったのだ。

冒頭のコラムによれば、いかなる形であろうと、男女関係はオープンで周囲も当然のように祝福するのが欧州式であるかのようだが、私の身に起こったところで観察する限り、祝福も何もあったものではない。Bさんの登場によって、それまでコツコツと築いてきたA氏への信頼はガタガタと崩れ、繋がっていたA氏との仕事も全部終了することとなり、会ったことのある娘さんとの連絡も途絶えてしまったのである。

起こるべくして起こった事態かもしれないが、私は同じでも、相手の人間関係が変わることによって、周囲の関係が壊れ、金銭上の収入が止まり、将来計画も雲散し、全てが唐突に終わるのである。

タブロイド紙に掲載された話」ではない。これは、最初から求めもしなかった私にとって、実際に目の前で晒された実話なのである。「暴かれはしても、実生活には害はない」と上記コラムニストは記すが、何を以てそのように書けるのだろうか?

何が何だか泥雲を掴むようだったが、現に経験せざるを得なかった二月から数ヶ月間の時間とエネルギーの浪費は、まさに「実害」以外の何物でもない。

八幡和郎氏の『誤解だらけの皇位継承の真実』(イースト新書)(2018年4月15日)には(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180623)、次のように記されている。

プリンセスの大胆な結婚は海外のロイヤル・ファミリーを見ても不幸な結末になっているケースが多いのです。カメラマンと結婚したイギリスのマーガレット王女しかり、アメリカ人と結婚したタイのウボンラット王女も同様であって、あまりおすすめできるものではありません。(p.266)

八幡氏にはフランス留学の経験があり、欧州王族についても相当に調べていらっしゃるようだ。その上で、日本の天皇家について、共時的側面から表出した問題意識を基に、通時的に天皇家の時系列の婚姻事情を本にまとめて、世に問うておられる。
プリンセスのみならず、概して周囲を驚かせる「大胆な結婚」ないしは結びつきは、大凡「不幸な結末」が予期できよう。
王族や天皇家のような上流階級がなさることは、必ず一般人にも何らかの影響を及ぼす。安易に真似をする事例も出てきて、問題が顕現化した時には既に手遅れ、となる場合も少なくない。
冒頭のコラムでは、タイトルに「報道」という言葉を含めて、あたかも本質的な論議を避けようとしているかのようであるが、小細工に過ぎない。